テニスラウンジ港のある港区に港があります!名古屋港開港100周年

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我らのテニススクールのある名古屋市港区の

名古屋港が今年で100周年!

名古屋港開港100周年オフィシャルHP

愛知県、日本の流通の中心となっている名古屋港が生誕100年を迎えるという記事を目にして
こんな記事を書いて見ました。
100周年記念オフィシャルサイトの紹介とともに
これからの港のことをいろいろ考えてみました!
まずは、スタートした当時のお話。

■「ろせった丸」を誘致せよ

明治39年
築港工事はほとんどが水中で行われる作業であるため「築港は金をかけているが、その金は海の中に捨てているのではないか」と築港反対勢力が勢いづく中、築港工事を進めていた愛知県築港事務員派出所の職員らは工事が進んでいることを何とか証明したいと考えていた。
新鋭技師奥田助七郎もそんな職員の一人であった。
明治39年10月報知新聞社主宰の博覧会船「ろせった丸」
総トン数3800余トン 吃水17尺(約5.0m)長さ60間余(約115m))
四日市港に入港するとの報道を聞きつけた奥田は
「この好機を逸してはならない。何とかろせった丸に寄港してもらいたい」
と考え、報知新聞にろせった丸来航を懇願した。
しかし、新聞社からは
「巡回の予定も既に決まっているし、まだ小型の汽船さえも入っていない、海図も無い港へこんな大きな船を入港させて万一のことがあったら困る」
と承知してもらえなかった。
「こんな好機は二度とない」、奥田技師は、なおも食い下がった。
新聞社は根負けし、仕方なく
「それでは船長に直接交渉していただき、船長が承知したら許可しましょう」と返事した。
奥田技師は、港の必要性を切々と船長に語った。
奥田技師の情熱にほだされたのか、船長も侠気ある人物で「あなたの気持ちは良くわかりました。
けれども私もまだ海図のない港へ船を入れて、もし失敗すると船主に対して申し訳ないばかりでなく、船員免状にも関係する。
将来有望なこの港に一番に入港できることは大変名誉なことでもある。
しかし、私にはどこがどう掘ってあるか分からない。
奥田さんが水先案内をしてくれるなら入港しましょう」と了解してくれた。


明治39年9月29日、午後1時「ろせった丸」は奥田技師の水先案内で無事、建設工事半ばの鉄桟橋前に停泊した。
29日、30日、10月1日の3日間、ひと目「ろせった丸」を見ようと多くの人々が近郷近在より駆けつけた。
その後名古屋港へは大型船が相次いで入港した。
そして、築港反対の動きが沈静化していったことは大きな出来事であった。
海図も無い港に大型船の入港を了解した船長と奥田助七朗の熱意が、築港建設推進に拍車をかける結果となり、現在の名古屋港の礎となったのである。

自分のスクールのある地域をもっと知りたい黒野支配人でした…